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伊達のいしぶみ
北海道のなかでも特異な歴史を持つといわれる伊達市。しかし、現在では、道路や建物も移り変わり、まちのなかに開拓のころのなごりを探すことは難しくなってきました。
そんなまちのあちらこちらに石碑が建っているのをご存じでしょうか。遠い昔に建てられたものから、つい最近建てたものまで、石碑には、その時々に生きた人のいろいろな思いが刻まれています。
伊達の歌碑といえば、すぐに思い浮かぶのが、地名にちなんだ歌碑。亘理移住者の文人・佐藤助三郎脩亮が詠んだ「街に名づくる言の葉」二十首をもとに、伊達郷土史研究会の手によって、それぞれの地域に建立されました。同研究会では、こうした地名にゆかりのある歌碑を建て、地名の由来とその和歌を広く市民に知ってもらうのと、佐藤脩亮を顕彰する意味も込めて、昭和五十七年から文学碑としての歌碑建立事業に着手。多くのかたがたの協力を得て平成元年に二十首十八基の歌碑を完成させることができました。

佐藤脩亮について
では、それぞれの歌碑をご紹介する前に佐藤脩亮という人物について、若干ご説明しましょう。亘理伊達家の家中、佐藤進助の長男として文化八年八月に生まれた佐藤脩亮は通称を助三郎、号を桃園といい、幼年時代に仙台に上り、歌人砂浜為胤について国文、和歌を勉強しました。
六十六歳のとき、伊達邦成公とともに一家をあげて本道に移住。専ら開拓の経理・会計を担当するとともに邦成の命を受けて伊達の地名に因んだ和歌二十首を残したといわれています。
明治十五年、脩亮は老齢ということもあって亘理に帰り、明治三十一年、八十八歳で没するまで和歌に精進したといわれています。
脩亮が「街に名づくることの葉」を詠んだのは明治四年七月のことです。伊達邦成主従の第一回移住が明治三年四月ですから、一年三ヵ月を経過していました。その原本は残されておらず、写本だけで、歌には、中国の陰陽五行説を取り入れているともいわれていますが、
道内の各開拓地に例を見ない記念すべき文学的遺作といえるでしょう。
旭が岡の歌碑
久方の ひかりあまねく さし登るあさひが丘の あけぼのの空

旭が岡は、現在の舟岡町にれの木団地の周辺をさし、移住当時は柴田船岡藩からの入植者に土地が割り当てられました。
「朝の光が、残すところなく、ひろびろとさし、昇ってくる。この岡のあけぼのの景色は何とすばらしいことだろう。二十首の歌の最初に置かれたこの歌には「追い追い君のお住まいにもなるならん」と添え書きされているとおり、非常に眺めのよいところであったといわれています。当時、ここから東側の一帯は、海に向かってなだらかな丘陵地帯となっており、ここに立つと新しい開墾地が一望に開け、晴れた日には遠く内浦湾の向こうに駒ヶ岳をのぞむこともできました。
しかし、現在、ここに立ってみても岡と名付けられそうなところはどこにも見当たらず、東浜の浜辺までびっしりと新旧の建物が建てつくされています。
第一句の「ひさかたの」は天、光、月などにかかる枕詞(まくらことば)で、「ひさかたの光のどけき春の日に しず心なく花の散るらん」「ひさかたの天のやえぐもふりわけてくだりし君をわれぞ迎えし」といったように多くの和歌に用いられています。
(歌碑は昭和六十三年十二月十七日建立)
梅本丁の歌碑
開拓当時の居住区を表す言葉には「町」や「丁」、「小路」というのが使われています。仙台では武家屋敷のあるところを「丁」、足軽や町人、職人などが住むところを「町」と呼んでいたようです。一方、亘理では武家屋敷を「小路」、町人や職人の住むところは仙台同様「町」とつけられていました。

消え残る 雪のうちより 咲出てちるをいそがぬ 梅の本つ枝
まだ消えやらぬ真っ白い雪と、香り高い梅の花の対称。それは京都が生んだ江戸中期の日本画家、尾形光琳の絵柄を思わせます。
「長い冬に耐え、春を待ちかねて咲く蝦夷地の梅は美しく、花期も長い。苔むしてたくましい梅の本つ枝(幹となる枝)のように、したたかに生きよ。必ず満開の花が咲くのだから」この歌にはそうした意が込められています。
現在の開拓記念館あたりは、当時、茅が一面に生い茂る湿地帯で、それが海の方角に向かって広がっていて再び戻ることもかなわぬ亘理館を思わせる地形であったようです。初めにきた入植者たちはまずこの場所に仮小屋を作り「御要害」と仮称しました。御要害とは、旧仙台藩が防衛配備上使った亘理館の正式名称です。
その後、入植者たちの住居予定地はここを中心として、縦横に割り振られていきました。まさに、梅本丁は開拓の花を咲かせる本つ枝となったわけです。御要害、つまり現在の開拓記念館から海側に伸びる道筋が梅本丁であり、最初は本丁と言っていて、第三回移住者が入り住みました。
邦成公自身が居を構えることになる「梅本」の町名は、ひょっとすると歌人でもある邦成公の命名であったのかもしれませんね。
(歌碑は昭和五十七年八月二十三日建立)
青柳丁の歌碑
伊達に開拓の鍬が下ろされてから本格的な生活道路づくりが進められていくのは、明治四年の第三回移住以後のことです。この年、八百人にもおよぶ大挙移住により、弄月、萩原、舟岡、松ケ枝、北稀府、竹原と入植地は一挙に広がり、明治五年には今日の幹線道路となっている大部分が整えられました。

今よりや むかしの春に 繰返しみとり色そふ 青柳の糸
「冬がどんなに厳しかろうと、のどかな春は必ず戻って来る。このことは、今だけのことではなく、昔から今後にわたっても繰り返されているのだ。糸のように細い柳には、もはや新緑の若葉が芽ぶき、そよ風になびいているではないか。めげず、たゆまず明るいあしたに向かって前進しようよ」という、ほのぼのとしたなかにも強い意思の感じられる歌です。
「今よりや」の「や」は「今より」の反語で、「今だけではなく」の意味となり、青柳の長い枝については「糸」と表現されるのが普通となっています。また、この歌は「青柳の緑の糸をくりかえし、いくらばかりの春を経ぬらん」とうたった清原元輔(平安中期の歌人。清小納言の父で三十六歌仙のひとり)の歌が本歌ではないかと思われます。
歌碑は松ケ枝町の小野孝志さん宅の横に建立。自然石に和歌を刻んだ黒御影石がはめ込まれています。
青柳丁は、歌碑の建つ辺りから東に延び、清住道路までの小路でしたが、いまでは、開拓当時からの家は残されていません。また、歌碑の前を通る道路、青柳線の西側は中小企業団地が造成されて、新たな伊達市の経済・産業の中心として変わりつつあります。
(歌碑は昭和六十一年一月一日建立)
桜小路の歌碑
君寿満は 宇す山桜 今年よ里尚一志奉の 色香をそ添ふ

亘理の文人佐藤脩亮がこう詠んだ桜小路の歌碑は、噴火湾を一望できる小高い丘の上にあります。
「うす山桜」の「うす」は「有珠」と「薄」に掛けた言葉で、「わが主、邦成公のお住まいが建てば、城地を失った移住者にとって喜びはひとしおであり、薄桃色の山桜もすぐその時から、こととぎの色香を増すことだろう」との思いがこの歌に込められています。
伊達高校付近から、太陽の園にまっすぐのびる平坦な道がやや登りにかかる辺りからを桜小路といいます。入植当時、耕作が可能な土地と判断されたのは、ほとんどが平坦な乾燥した場所であり、そのなかで岡といえば、旭が岡(現在の舟岡町)とこの桜小路くらいでした。
明治六年から四十一年まで、この地に旧鹿島神社が建てられていましたが、移住後、亘理城再興を夢見ていた邦成公は、ロシアの南下政策に備え、おそらくこの地に城を築こうとしていたのではないかと思われます。
歌碑は、昭和六十一年五月十日に建立されました。
また、桜小路の歌碑のすぐ隣には、邦成公の三男、伊達基氏が詠んだ歌碑が建てられています。
移し植える 松と杉とをためしにて君が八千代に あわんとぞ思ふ
と大正天皇の即位を記念して、植樹をしたときの歌が刻まれています。
学習院卒業後、東京で語学教授をしていた基氏は、父邦成公が亡き後、帰郷して養蚕業を奨励し、伊達村発展に尽力しました。歌碑は、大正四年十一月に建立されましたが、文字が判読しずらくなったため、昭和六十一年、歌碑の横に模刻碑が建てられました。
竹原丁と菖蒲小路の歌碑

アヤメ川は明治初期の開拓期に生活用水のために造られた人工の川の「疎水」で、名前のとおり戦前までは、五つの水車が粉ひきなどに活躍していました。現在では、水車・アヤメ川自然公園として整備され、市民の憩いの場として散策路も設けられています。
行末は 世々をこめたる 竹原に実をはむ鳥も 住まんとぞ思ふ
「年中緑を保ちながら、真っ直ぐに伸びしげる竹のように、末長く繁栄してほしい。青々と茂った竹林には百年に一度といわれる花も咲き、鳥も住んで、きっと楽しいふるさとが作られることだろう」竹は、素直に伸びて強いところから繁栄した状態が永続する意に用いられます。
北海道には、自生の竹はないので、入植者の誰かが持ち込んで植えたのか、あるいはただおめでたい言葉として、この町名がつけられたのかは不明です。
君と臣と 深きねさしの あやめ草けふより千世の ためしとそひく
「あやめぐさ」は、歌の上で五月の季題です。昔は五月の節句に、根つきの菖蒲を軒先にかざしたり、子どもたちの髪や帯に結んで邪気を払ったといわれています。こうして用いられる「あやめ」には、白く長い根が付いているところから「ねをひく」と表現し、また「ね」「ひく」を呼び出すための縁語として使われています。
「私たちは、先祖代々から主君を中心とした堅く好ましい環境を保ってきた。この度、有珠郡の支配を命じられて、この地に理想の里を築こうとしている。後世の人びとの範となるよう勤めようではないか」との意が込められています。
(歌碑は菖蒲小路と竹原丁の合同碑で、ひとつの石碑に二首の歌が織り込まれています。昭和五十八年八月二十五日建立)
泉小路の歌碑
松ヶ枝町にある道央自動車道伊達インターチェンジの料金所。泉小路の歌碑はこのすぐ手前の道路を北側に入った閑静な公園の中にあります。
開拓移住者にとって貴重な水源だった涌き水。亘理の歌人・佐藤脩亮はこんこんと泉の湧き出るこの地を次のように詠みました。
せき入れて むすぶも涼し おのつから流れの末も 清きいつみは

泉は夏の季題です。この地では、自然に湧き出てくる水をせきとめて樋に引いていました。
「暑さをしのごうと、手を組み樋の水をすくうと、清らかな流れが走り、涼しさが身にしみてくる。湧き出る水もやがて小川となって、内浦の海にそそいでいるが、どこまでもこの清らかさは保たれることだろう。みんなもこの清水のようにあつてほしい。
泉小路は、紋べつ岳の山裾部を開いた良耕地です。山が貯えていた地下水が沢づたいににじみ出て、このあたり数ヵ所に泉をつくり平野部に流れ出ています。
平地に出た泉の水は、草原に広がって湿地帯をつくり、ある所では小川となって海に向かっていました。
開拓記念館の東側や改修されたシャミチセ川の川筋などがそうでした。
「むすぶ」は涼むために水を掬う手の意味で、「おのずから」は自然にの意味として使われています。
なお、湧水地はことしの二月、「泉の沢緑地公園」として整備され、自然に親しみながら散策できるよう遊歩道がつくられました。
また、この地域はブライム・へルシータウン構想の計画対象地ともなっていることから、将来的には多くの人たちの憩いの場となることでしょう。
(歌碑は、昭和六十一年五月十日建立)
桔梗小路の歌碑
亘理の歌人佐藤脩亮が詠んだ二十首、十八基の歌碑のなかで、建立年月日のもっとも新しいのが桔梗小路の歌碑。国道三十七号線の北稀府バス停から、大高酵素活ノ達工場へ向かう手前の道路わきに建てられており、高さ約一bの自然石を使った碑には次のような歌が刻まれています。
秋の野に 千種はあれと 咲きいつるなかに色こき きちこうの花
この辺りの野山は、秋風のたつころともなると、多くの野の花が咲き競い、さながら花ござを敷きつめたように変ぼうします。
「千種」とは、たくさんの草花の意味で、「きちこう」とは青紫色の花を咲かせるキキョウのことです。秋を代表する花として古くから好まれ、かつてはどこでも見られた野生のキキョウも、最近ではほとんど見かけることができません。
ここで詠まれたキキョウが、はたして野生であったかどうかは定かではありませんが、もしかするとキキョウを愛する移住者のひとりが郷里の宮城県からはるばる持ち込んだものかもしれませんね。
やがて開かれるわが家のあたりに、移し植えてあったものが、伊達の風土に合って青紫色の花を付けたものでしょうか。けなげにも蝦夷地に咲いたふるさとの花を愛でて街の名としたものと考えられます。
萩原通りから桔梗小路に入るあたりの谷藤川は、当時の地図を見ると河原が広くふくらんでいて、川石を選べば難なく渡れた場所であったようです。広い河原にはリンドウ、カタクリ、オミナエシ、萩など四季の野の花々が咲き競い、はるばる新天地を求めてこの地に渡った開拓者たちの郷愁を慰めていたことでしょう。
桔梗小路には、第四、五回移住者などに屋敷割りがされていますが、残念ながら、現在にまで残る家は見ることができません。
(歌碑は、平成元年十一月十二日建立)
萩原丁の歌碑
谷藤川に沿って細長く広がる萩原町。明治五年、第四回移住者に割り当てられた萩原丁は広々として低湿地が少なく、日当たりのよい土地であったことからエゾヤマハギなども多く自生していたことと思われます。
宮城野の 秋のにしきを 今ここにうつしてそ見る 花の萩原
「咲きこぼれる萩の原に立っていると、今もふるさと宮城野の秋のなかにいるようだ。ここならば、きっとりっぱな里にできるぞ」と、開拓民を励ましている若き邦成公の声が聞こえてくるような歌です。
萩原町の国道三十七号線沿いに萩原用水路を跨ぐように建てられている歌碑。実は、この用水路にも先人の苦労が偲ばれます。開拓当初、萩原地区は、谷藤川の川筋に平行して屋敷割りが行われました。しかし、この地区は一般に地下水が深く、ことに川筋から遠い上萩原と呼ばれる地区の住民たちは、生活用水の確保に苦しんでいました。
こうしたことから、開拓農民らは一致団結して、疏水(土地を切り開いて作った水路)の造成を決断。明治五年に弄月丁と清住丁を、同六年には萩原丁に谷藤川の水を引くため疏水造成工事が行われました。当時は満足な道具もなく、工事は困難をきわめました。
萩原疏水の工事には約百名が参加、弄月用水からの支溝六百間(千八十b)を掘り上げたことで、三条の疏水延長は約八・五`におよび、ようやく開拓農民の生活に潤いを与えました。このとき、取水口に水神碑を建立したことからも当時は、農民にとっていかに水が重要であったかをうかがい知ることができます。
(歌碑は、昭和六十三年十二月二十五日建立)
乾小路の歌碑
国文学者でもあった佐藤脩亮は、学問ヘの意欲が旺盛で漢学にも精通していたといわれており、その歌のなかに古代中国の陰陽五行説を取り入れているものがあります。
陰陽五行説とは、一切の万物は陰・陽(天・地)の二気によって生じ、その間に、循環する木・火・土・金・水の五つの元素の消長によって吉凶を説明するとされている哲理で、易学にも取り入れられています。乾小路もそうした和歌のひとつとなっています。
天にたたえ 父と唱えて ものものの根さしとなるも 乾よりして
「主君、邦成公を信じていかなるときにも揺るがず、堅い決意をもって進むならば、われわれの事業は成功し、作物もよく根づき、繁栄は間違いない。この地に入るあなたがたが、それを実践し、有珠開拓の模範となってほしい」というのがこの歌の意味です。
「乾坤」という成語があります。「乾坤一擲」といえば運を天にまかせて、のるかそるかの大勝負をすること。「乾」は易学では天・天子・男・夫などを意味し、剛健で進んでやまぬさまを現します。「坤」は易学で南西の方角であるとともに、大地・女・母・妻などつまり「和」を現しています。したがって乾坤といえば天地・陰陽という意味で、乾坤が相和して初めて天地の万物が生成するものとしています。
「乾」は「戌亥」とも読んで、戊と亥の中間の方角つまり北西の方角の呼び名で、いわば易学上の吉方となっています。乾小路は、現在の加茂建設の前方に割付けられた小地域ですが、方角的には現在の太陽の園付近からでなければ、北西方向にはならないことから当時は、漠然と「乾」と呼んでいたのでしょうか。
この地域には、国島さんや、この歌の作者、佐藤脩亮など、第一、第二、第三回目までの移住者が屋敷割りされています。
(歌碑は、平成元年八月十六日建立)
岩が根丁の歌碑
岩が根丁とは、現在の中稀府地区をさします。ここには明治五年の第四回移住者や同六年の第五回移住者が入植しました。
移住まもないころの伊達の道路は、防御を考えた迷路のような道路がつくられていましたが、ここから先の南稀府や東関内地区は市内でも珍しく整然とした道路網が形成されています。それは、同地区の開拓が明治十三年の第八回移住者によって進められたことによるもので、そのころになってようやく開拓使の指導が行き届いてきたことがわかります。
動ぎなき 岩根に深く 苔むしてなつともつきぬ 君がゆくすえ
「どっしりと、大地に根を下ろしたような巨岩の根もとは、あたり一面苔に覆われて冷たく潤っている。尾根に染み込んだ水は、ふもとのこのあたりに来て泉となり、夏にも涸れることがない。わが主君邦成公はあの巨大な岩に湧き出る清水のように、ずっと繁栄を保たれることだろう」
有珠郡支配の拠点となった紋べつの地には、二つのよく目立つシンボルがあります。ひとつは火の山有珠岳で、もうひとつは東山のいただきに立つ天狗岩です。岩が根と名付けられたこの地は天狗岩がそそり立つ東山の山裾にあたり、谷藤川や牛舎川など、東山から流れる大小さまざまな河川はいまでもこの地区の人たちに潤いを与えています。
歌碑は桔梗線と稀府通り線の交差する愛宕神社の前に建てられています。ちなみに愛宕神社は、明治六年、この地に第五回移住団として亘理より移住した初代深田勝隆が遷宮したもので、御神体にはカグツチノカミ(火の神といわれている)が祀られており、古くから火災を防ぐ神様として信仰されています。
(歌碑は、昭和六十二年四月二十九日建立)
弄月丁の歌碑
新農業構造改善事業により、多目的研修施設として昭和五十九年に開館した弄月館は、温泉の入浴や調理実習のほか、いろいろな会合などで多くの市民のみなさんに利用されています。その弄月館の前に建てられているのが弄月丁の歌碑です。
出ずるより 入るまで空に あくがれて月もてあそぶ 秋やいく秋
月の出るのを待って宴を開いたが、澄みわたるえぞ地の宵と、過ぎ去った遠い故郷の月見の思い出とが交錯してついつい時のたつのも忘れて打ち興じていた。作者は、旧暦の八月十五
日、名月の宵の感傷をうたいながら「この地をわが子孫のために平和な理想の里とするのだ」という、誓いも歌のなかに込めているように思われます。
「弄月」とは漢詩に使われた言葉で、多くの用例があり、中国の詩人李白の詩「何処の名僧か水西にいたる、舟に乗り、月を弄んで径渓に宿す」もその一例となつています。
弄月丁は、当初「大手行当たり」と仮称され、元市長の横山家や斎藤家など、第三回の移住団四十六戸が入植しています。また、歌碑の立つ弄月館の向かい側には、道路に平行して谷藤川から分水した用水溝が走っていますが、これは明治六年、開拓者延べ百九十六人が自発的に出役して開削、完成させた疏水路です。当時、この疏水路沿いには、各戸に手作りの水車小屋やバッタリ(テコを利用し、水の重さで動くようにした杵と臼)の草ぶき小屋が建てられ、穀類の製粉が行われていました。そして、そののどかな水音が単調な開拓生活にわずかながら趣を添えていました。
(軟碑は、昭和六十三年五月二十二日建立)
網代丁と南小路の歌碑
伊達郷土史研究会が昭和五十七年から約七年間の歳月をかけて行った佐藤脩亮の歌碑建立事業。歌は全部で二十首あり、十八基の歌碑のなかには二首の歌が刻まれているものが二つあります。そのひとつは、竹原丁と菖蒲小路の歌碑。残るひとつが、元町の大雄寺境内に建てられている網代丁と南小路の歌碑です。
網代もる ひ魚のよるや 待ちふけぬつきかげ寒き うすのかわなみ
「ひ魚を揃ろうと、網代を仕掛けて待っていたが、ふと気がつくといつのまにか夜も更け、川面をわたる寒風が月影をこまかく砕いて吹きすぎていた。」
「網代」とは、竹などを細かく編んで作った魚を捕る仕掛けのことです。また、「ひ魚」とは本来あゆの椎魚のことですが、ここでは冬に捕れる小魚のことをさし、「うすの川」とは現在の有珠町の川ではなく、有珠郡にある川を意味します。
蝦夷地の冬の寒さはひとしおですが、「自然の営みにあわせ、工夫しながら生きていこう」との願いも込められているのでしょう。
網代町には、当初、伊達開拓のリーダー田村顕允も屋敷割りされましたが、やがて、市街地となるにつれ、人の入れ替わりがはげしくなりました。
めぐる日の しばしとどまる 中空はひだりも右も 南とぞしれ
「めぐる日のしばしとどまる中空」と言えば、ほぼ日中をさします。「太陽に向かって立てば、左も右も内浦の海原が光り」輝いていて、その方向はいつでも南と考えてよい。つまり陽の方角である…。」御要害、いまの開拓記念館から見てここは、ほぼ南西方向にあるので「南小路」と名付けられました。
易学にいう「陽」は、南・昼・日など万事が叶う吉方とされていて、歌はこのまちに住む人々に幸多かれとの願いが込められています。南小路には、当初柴田藩家臣団の第一回渡道組数戸が割り当てられましたがシャミチセ川河口近くの低地であったためか、やがて旭が岡(舟岡町)の方に移転しています。
(歌碑は二首を織り込み、昭和五十八年八月二十五日建立)
西小路の歌碑
当初、入植した人たちは、まず、現在の開拓記念館の場所に仮小屋を建て、御要害と呼びました。御要害とは、旧仙台藩が防衛配備上使った「亘理館」の正式名称です。西小路は、その御要害の西側を南北に屋敷割りされた道筋であり、第一回移住の阿部家など三十数戸が入って開拓に励みました。そして、その実績もめざましく、作柄も豊かであったことから、後続の人たちは、出発以来、抱き続けてきた不安をぬぐいさり、改めて開拓に意欲を燃やしたことでしょう。
夕日影 高根の雲を そめ色のあかねをさらす 西の山の端
「秋の夕日が有珠岳の端にかかると空は一面、茜色に変わり,有珠の奇峰はまさに黄全色にと輝く」歌碑が建てられている元町児童公園の辺りは、年々家が建ち並び、今となってはその場所から有珠山を眺めることはできません。しかし、当時は、広大な畑の向こうに有珠山の夕映えをのぞむことができ、そのすばらしい景色は開拓に従事する多くの人たちの苦労を癒したに違いありません。
易学によると西の方角は「金」にも通じ、やはり縁起のいい方角となります。
茜とは山野に自生する多年生のつる草で根が赤い色の染料となります。「茜をさらす」は、その茜の染料で染めた赤色の布を、竿に掛けて並べて、日にさらし乾かしている有様を表現していますが、こうした当時の風情もやがて時代の流れとともにまちのなかから姿を消してしまいました。
なお、「高根の雲」については「高根の雪」とする説もあります。これは佐藤脩亮の直筆による原本が存在しないためで、その写本が数種あり、解釈に頭を痛めるところとなっています。
とりあえず、ここでは、伊達邦成公の三男、伊達基氏による写本を参考に「雲」としました。
(歌碑は昭和五十九年八月二十三日建立)
巽小路の歌碑
巽(たつみ)とは、辰巳とも書き、十二支で表した方位で辰と巳の間、つまり南東の方角にあたり、易学でも吉方とされています。伊達邦成公の住まいであった梅本町の御要害(現在の開拓記念館)からみても南東の方角にあたるこの巽小路。亘理の文人、佐藤脩亮の詠んだこの歌碑は、国道三十七号から巽通り線を入るとすぐ右手の舟岡会館前に建立されています。
世を宇治と 人のいひしは 昔にて巽のすまい なにうかるヘき
「世の中は嫌なところ、住みにくい場所、などと言っていたのは昔のことで、ここ巽小路に住んだら、世のうさは、ことごとく忘れることができるだろう。開拓者たちよ、どうかがんばってこの地に住みよい里をつくりあげてほしい」
古今和歌集・雑歌の部に「わが庵(いお)は、みやこの巽しかぞ住む 世をうぢ山と人はいうなり」という歌があります。小倉百人一首でも有名なこの歌は、「わたしの家は都の東南にあたり、鹿もいるが安らかに住むことができる。それなのに世間の人は世のなかが嫌で、かくれ住む宇治山と呼んでいるようだ」という意味がありますが、脩亮の歌は、この歌が本歌となつているようです。
宇治は京都の東南にある地名で平安時代貴人の遊楽地となっており、「世を宇治山」は「世を憂し」に言い掛けて、世の中は嫌なところ住みにくいもの―の掛け言葉に使われています。また、「巽」は、東南の方角以外にも、うやうやしい、譲り合うなどの意も含まれており、美しい人間関係の生成を期待した歌ともいえるでしょう。
巽小路には明治四年、第三回移住者が十数戸入って開拓しました。そして、初めに入つた開拓者の約半数がいまも永続して繁栄を保つています。
(歌碑は昭和六十三年八月二十三日建立)
浜丁の歌碑
明治以前の漁業は、松前藩による場所詩負制度のもと、アイヌの人たちを中心に、おもにニシンやサケ、コンブなどをとっていました。伊達家支配下に移ると、場所請負制度は廃止され、家臣十一名に漁船をもたせ漁業を行わせるようになります。そして、その人たちを「魚とり人」と呼んでいました。しかし、移住士族の大部分は漁業についての知識も浅く、漁船を所有しても実際は旧出稼人や番人の能力にたよる以外になかったといわれています。
世をおくる その営みに 網引きすとうすの浜辺の 海士の呼び声
「この辺りは、海の幸にも恵まれ、以前からの漁をするひとたちが、豊かな自然の恵みを受けながら生きている。そしていま、この浜辺には網引きに取りかかる前の忙しげな男女の声が沸きたち、静かな浜を活気づけている」のどかな浜での漁をする情景を歌いながら、先住の人たちとの、平和な共栄を願う心が込められた歌です。
第二句「その営みに」は「その磯波に」と記された資料もあり、これはどちらが正しいかは断定できない部分もあります。仮に「いそなみ」とすれば「営み」に掛けた言葉となり、このほうが脩亮らしくも思われますが、歌碑ではもっとも記載例の多い「営み」を採用しています。 「うすの浜辺」とは、現在の有珠町をさしたものではなく支配地となった「有珠郡の浜辺」であると思われます。また、「海士」は漁(すなどり)をする入、つまり漁師のことをいいます。ちなみに有珠郡内の漁業者は、明治十三年には二十二人であったものが、同十六年には百六十三人となり、三年間に七倍もの数にふえていきました。
「浜丁」とは、現在の錦町一帯や大町をさしていますが、当時、この地が直接海岸に面していたわけではありません。さらに海岸寄りの地域(現在の西浜町)については、「裏浜」と呼ばれていました。
(歌碑は、昭和五十七年八月二十三日建立)
清住丁の歌碑
厳しい開拓事業が成功した要因には多くのことが考えられます。ひとついえることは、移住してきた人たちがその住む町にどれほど愛着をもつことができるか―ということでした。
したがって邦成公の遠大なまちづくり構想の第一歩は、まず、家臣のなかでも知られた国学者の佐藤脩亮にこうした目的に添うような作歌を命じたところからスタートしました。
ここでは、清住丁の歌碑をご紹介しましょう。
磨けただ 心のちりの 曇りなくげに清住の 名にしおうまで
「ここは清住という、ほかにはないりっぱな名を選んだのだから、ひたすらに心を磨き、その名のように清らかで住みよい里にするように励んでほしい」
第四句、「げに清住」の「げに」は、「ほかと違って」という意味で、第五句の「名にしおう」は「名を持っている」「有名な」といった意味になります。
「名にしおう」では、古今和歌集の「名にしおはばいざこと問わん都島わが思う人は ありやなしやと」という在原業平の歌が参考になるでしょう。
「清住に住む人たちよ、心も体も健康で、町の名のように、美しいふるさととなるように努力してください」との願いが込められた歌です。清住には、第ニ回と、第三回の移住者十戸程が入植しましたが、当時から残っている家は三戸ほどしかありません。
歌碑のすぐ後ろを流れる弄月川は、明治五年に延べ千百二十八人の開拓者たちが自発的に出役して開削した谷藤川からの人工用水路、いわゆる「疏水」で、当時の苦労を思ばせます。
歌碑は、昭和六十三年七月三十一日、清住会館の横に建立されましたが、地域の「くりの木子ども会」でもこれを記念して夢や思い出を未来につなげよう―と歌碑のすぐ横にタイムカプセルを埋設しています。
松ヶ枝丁の歌碑
北海道で松といえば、まずエゾマツがあげられますが、本州ではアカマツやクロマツなどが一般的です。しかし、どちらも北海道にはもともと自生していないことから道内にあるアカマツやクロマツは、すべて後になって植栽されたものといわれています。
市の開拓記念館庭園には、明治九年、太政大臣(当時の総理大臣)三条実美公が明治天皇の御名代として伊達を訪れたことを記念して植えられたアカマツなど数株の松が風雪に耐えた年月を物語るかのように今でも青々と生き続けています。
としさむき 霜の後にも 色かえず緑もふかく さかう松ヶ枝
「もう数え切れないほどの寒い冬をくぐり抜けながら色が変わるどころか、なお一層緑色を増し、幹も枝もますますたくましさを加えていく松。松は昔から長寿と繁栄を表すめでたいものとされているが、松ケ枝丁に住む人たちも、そのように強くたくましく繁栄していってほしい」との願いを込めた歌で、亘理の文人佐藤脩亮が伊達邦成公の命を受けて詠みました。
移住当時の屋敷内には、どの家にも松の苗が植えられていましたが、やがて居宅の日照をさえぎるほどに繁茂したので、後から切り除いたところが多いといわれています。ここには、第三回移住者の佐藤家や星家など十戸ほどが入植し、現在も六戸の子孫が祖志を継いで繁栄を保っています。
歌碑はサイカチ通り線の松ケ枝会館前に建てられていますが、サイカチ通りにはその名のとおり伊達町百年の樹に指定された樹齢約百二十年のサイカチの巨木が立っています。
松ケ枝町の範囲は広く、現在では、歴史の杜や中小企業団地、高速道路のインターチエンジと飛躍的に整備が進んでいます。
(軟碑は昭和六十一年一月一日建立)
末永丁の歌碑
市内のほぼ中央に位置する末永町。移住後は肥沃な土地を有する農耕地帯として開けてきましたが、近年は宅地化が進み、新興住宅地として人口の増加にもめざましいものがあります。ここでは、末永丁の歌碑をご紹介しましょう。
祝うぞよ 千歳万代 君が代の末長かれと あおぐ明け暮れ
戊辰戦争で敗れた亘理伊達家。その家禄は二万四千三百五十石から、わずか五十八石に削封されて千三百六十二戸の家臣は路頭に投げ出されました。やむなく領主邦成公は家財のすべてを売り払っての蝦夷地移住を決意。有珠郡の支配を命ぜられ、かろうじて君臣離散をまぬがれることができました。したがって当時家臣たちにとっては、領主である邦成公が唯一心の支えとなっていました。
「前途が明るく開けつつある今、何よりも邦成公ご一家の上に、そしてともに入植した多くの人たちの上にも、末永く幸多かれ」と願う気持ちを、卒直にうたった歌です。
末永町は当初、新西丁とも呼ばれ、おもに明治4年に福島県新地から移住した家臣団など四十二戸に屋敷割りされました。
末永町には東関内を源流とする紋別川が流れているにもかかわらず、水位が低く、開拓当初は生活用水などに苦労していました。そこで入植した人たちは紋別川の上流から用水溝を掘って分水し、飲用水などに使ったといわれています。
また、このことを刻んだ水神碑が近年になって発見され、水車・アヤメ川公園の中流地点、水神の森に建て直されてました。
伊達邦成公の歌碑
明治維新の後、主従一丸となって北海道に渡り、今日の伊達市の基礎を築いた亘理伊達家十五代目領主伊達邦成。邦成は、天保十二年(一八四一年)、陸前国玉造郡岩出山に生まれ、十九歳で亘理領主、伊達邦実の嗣子となりました。
明治政府から北海道開拓の許可がおりたのは明治二年八月二十三日で、この時邦成は弱冠二十五歳。同年九月に邦成は現地調査のため亘理を出発し、十月二十日に紋べつ(今の伊達市)に到着しました。そしてそのときのようすを次のようにうたっています。
春にみし 都の花にまさりけりえぞが千島の 雪のあけぼの

移住は明治三年から明治十四年まで九回にわたって続き、約二千七百人が新天地での厳しい開拓生活をスタートさせました。
開拓記念館の入口に建てられているこの歌碑は、昭和四十七年の市政施行を記念して伊達ロータリークラブが建立したものです。
移住後のある日、邦成公が数人の友人を招いて歌会を催し、「駒ヶ岳の暮景」を課題として次のよう歌を詠んでいます。
くれかかる 雪もさやかに 目のあたり雪もて粧う 駒ヶ岳かな
噴火湾の対岸に沈む夕日。白衣をまとった駒ヶ岳が、その秀麗な半身に刻々と変わる空の色を映し、目前に迫っている。この歌碑は平成元年、長和歴史保存会の手によって同町の小貫文二宅裏山に建立されました。
また、現在、有珠町に住む丹野幸治さんの自宅の庭にも、邦成公が歌った歌碑が建立されています。
すなおなる ふしにはかかむ 枝もなし見よや教の 庭の呉竹
有珠町の丹野さんの祖先は、亘理伊達家の家臣。そうしたことから歌碑は丹野さんの自宅にある邦成公直筆の掛け軸をもとに、昭和五十六年、個人で建立しました。
田村顕允・伊達基の歌碑
明治から大正、昭和にかけ、日本は文化的にも経済的にも大きな変貌をとげていきます。明治十年、伊達邦成の三男として、伊達で生まれた伊達基もそうした激しい時代の流れのなかで生きてきた一人です。
学習院卒業後、伊達に戻り語学教授をしていた基でしたが、明治三十七年、父邦成が亡き後は、養蚕業を奨励し、伊達村の発展に尽力しました。動物学とくに養蚕には造詣が深く、伊達村有志に蚕種の分与と指導をしたといわれています。
また、明治四十四年九月六日に東宮殿下(後の大正天皇)が北海道に来られたときには、室蘭で拝謁を賜り、一緒に食事をする栄に授かるなど、邦成亡き後も父の志を継ぎ、村の振興にあたりました。
大正二年十一月、父の右腕だった旧亘理伊達家家老田村顕允が八十二歳でこの世を去りました。顕允が晩年に詠んだ歌に、
移し殖えし この民草の霜垣もむすび得ぬまに 年はくれぬる
というのがありますが、基にとって父の偉業を支えてきた顕允の死は大きな悲しみでありました。
同四年、基は顕允の労に感謝して、顕允が眠る墓の横に次のような歌を刻んだ碑を建てました。
かくばかり 珠ある里の 名におふもひとえに君が ちからなりけり
一方、同じ年に大正天皇即位の大典が行われ、伊達村では旧伊達邸庭園(現、開拓記念館前庭)に開拓記功碑を建て、青年たちが松の植樹を行いました。そして、基はこのときのようすをこう詠んでいます。
うつし植える 松と杉とをためしにて君が八千代に あわんとぞおもう
佐藤脩亮の桜小路の歌碑のところでもご紹介しましたが、この歌碑は、松ケ枝町の旧鹿島神社跡地に建てられています。

大正八年には、村をあげて開基五十周年の記念式典を挙行。同十四年八月に伊達村は町に昇格し、戸数は二千三百九十五戸、人口一万三千七百四十八人となりました。しかし、開拓民のなかには父祖が苦労して築いた「模範農村」の名が失われる―と、町制施行に反対した人たちもいました。
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